ペットロスとは言わないで

ペットロスとは言わないで

病気の発覚から3週間弱でベルさんがいなくなってしまい、ペット版やもめになったまいらねえさんです。
配偶者を亡くした場合は寡婦・やもめという表現があるのに、ペットを亡くした人間の名称が無くて困ります。

 いないのに、いるような気がするのがつらい

べるさんがいなくなってから、家にいるのはとにかくよくないと思いました。
べるさんがいつもいたダイニングの椅子に乗って寝てるような気がするし、そのうちに椅子から下りてきてカリカリを文字通りカリカリ言わせながら食べる音がしてくるような気がするし、気が向いたらソファにいるわたしのところに来てなでろやと言わんばかりにお腹を出して転がってくるような気がしてきてしまうし。

かといって台所に立ってもよくなくて、台所はべるさんがよくエサくれと来てくれたので「今日は来ないけどよく寝てるのかな?」と一瞬思ってしまう場所です。
食材を切りながらついつい足元を確認して、後ろを振り返って、そうするとリビングの遺影が見えて、あ、、、と思ってしまうのです。

リビングまでをネコの行動範囲としていた我が家では、リビングのドアを開けっ放しにするのはご法度でした。
ドアを開けているときはお手製のバリケードがついていたので、リビングと廊下をつなぐドアになにもないと「あっ、夫が開けっ放しにして!べるたんが廊下に出ちゃったじゃん、そうだよ、いないなーと思ったんだよ…」と、一瞬思ってしまいます。
夫はとんだとばっちりです。
べるたんはもう家のどこにもいないのです。

外に出ていればいいかというと、いつも行ってるスーパーや、ドンキもあまりよくありません。「猫砂まだあったっけ?カリカリは?」と思ってしまうので。
となると、もう自宅や自宅周辺以外のところにいる時間を増やすしかないのです。

ペットロスのスピリチュアル感

ペットを亡くして落ち込む飼い主のことをペットロスと呼びます。
でもべるたんを亡くす前から私はこの名称に疑問を持っていました。
たとえば旦那さんを亡くして深い悲しみのさなかにある人を夫ロスや主人ロスとは言わないでしょう。
そういった遺族の悲しみは「グリーフ」という概念と名前があります。
ペットであれ喪失感や悲しみによって人生がうめつくされるような気持ちは、動物であれ人であれ変わりはないと思いますし、グリーフはかなり広くさまざまな"喪失"を扱うので、たとえば交通事故で手足の一部を失った人の喪失感も「グリーフ」に入ります。

また、グリーフケアは福知山線脱線事故の折に上智大学が主体で提唱や研究をすすめた*1背景もあって、全体として科学的で非営利ベースであるのと対象に、ペットロスはどうかというと、霊媒師のサイトが出てきたり、虹の橋の話が出てくるばかり(別にこの話が悪いわけではないけど…)。

べるたんが亡くなった日に一通りペットロス系の検索をした私はかなりドン引きしました。おいおいおいおい。いくら高齢化社会とはいえ、ペットのほうが飼い主より長生きすることはまれです。ということは、動物と暮らす人のほとんどは死別を経験するということのはず。それなのに霊媒師レベルの科学的根拠の無いケアがほとんどで大丈夫か?いや大丈夫じゃない問題だ。

ペットのがん治療もエビデンスに疑問

話がさらに脱線しますが、猫や犬のがん治療・緩和ケアも検索をかけるとエビデンスのない謎の液体やきのこのエキスや某ワクチンが高額で販売されているのにもドン引きしました。
気持ちはわかる、どんなフードも食べてくれない弱っていくばかりの状態のペットを見てとりあえずなんでも試そうと普段では購入しないようなものも購入してしまう気持ちはとてもわかります。わかるからこそ、そういうやり方はどうなのか。
特に動物の医療は人間と違って健康保険がなく自由診療ですし、人間用のように薬事法違反を厚生労働省がきびしくチェックしていないからこういうのが幅をきかせられるのでしょう。
あー本当腹立つ。

というわけで

そんなこんなで私はべるたんの喪失をなんとか乗り越えるために、人間の家族との死別を扱ったグリーフの文献を中心に勉強することにしました。普通に検索したときに科学的なエビデンスのない情報にアクセスする人が増えるのは本当どうかと思うのでブログでもまとめていきます。よろしくおねがいします。